母親がすい蔵がんで亡くなったことについて その2

母親のがんになってからの状況を説明します。
今年の9月下旬ごろに食欲がないとかの身体の異常を感じたようです。
それで10月初めに健康診断を受けたのですが異常ないのこと。
でも異常ないはずはないということで更生病院で検査を受け、再検査をし10月19日にすい臓がんの告知を受けました。
肝臓にも少し転移していて手術はできない。
抗がん剤も、すい臓はたいへんな割には効き目が薄いということで、それでも一応少しもらったようですが、あとは痛みどめをもらうだけ。
わたしも自分でもネットなどでいろいろ調べ、内心1年ぐらいかななんて思っていました。
でも、みるみるうちに悪くなっていき、もしかしたら半年ぐらいかもなんて思ったりしました。
離れに部屋があるのですが、最初は食事の時は台所まで来ていたのですが、そのうち動くのがえらいということで食事も持っていくように。
食事の量もだんだん減っていきました。
でも、薬を飲むのに食べてからのまないといけないということで、ほしくもないのに無理して食べていました。
肉団子ぐらいのご飯を食べるのに20分ぐらいかかります。
10月ぐらいは薬が効いていれば痛くない時もあったようですが、11月ぐらいはずっと痛かったみたい。
私は週2回ぐらいと姉が用事で家にいないときなどに実家にいって看ていました。
気の強い母親ですが、さすがに「どうしてこんなことになったのか」などと悲観していましたが、でもとても幸せだと思いました。
3人姉妹なので、姉が養子をもらってあとをとったのです。
実の娘なので、なんでもいいたいほうだいですし。
夜もお母さんの隣で寝て、夜中でも背中が痛いときはをさすってあげたりしていたようです。
お嫁さんだったらこうはいかないと思うんですよね。
それにそんなにすごく悪くなる前は姉とわたしとか、姉と姉の次男で、手をマッサージしてあげたり背中をさすったりしていました。
でも、母親はわたしたちがマッサージしたりさすったりするのは当然、という態度でした。
しかし、姉がいないと扱いが大変。
それを思うと姉には頭が下がります。
11月25日は姉が朝早くからいなくて、頼まれて私が看ていました。
3連休だったので姉の長男(20代後半 独身)が遠方から見舞いに来ていたのだけど、夕方に駅まで送っていくことになっていました。
この日の夕食はおでんをつくることになっていたのですが、火をつけて外になるのはまずいので送った後に大根をゆでようと思っていました。
そして、送っていくときに珍しく母親が車で一緒に行くというので3人で車へ。
「大根をゆでたか」と聞かれ「まだゆでてない」というと「まだゆでていないのか。」とあきれ顔。
「とりあえずゆで卵は作った」と答えると「お前はなんて要領の悪いことやってるんだ。大根ゆでるときに一緒に卵をゆでればいいだわ。」ときつい口調。
行きにそれをいわれたのですが、帰りも同じようなことをネチネチ。
さらに夕食におでんを持っていくと「お前、少しは頭を使え。こんなんじゃ食べれん。こういうときは皿を温めてもってくるものだ。」といった調子。
普通に言ってくれれば「そうだな」と思えるけど、言い方が「かちん」ときます。
いつものことですが…。
この日は本当は紅葉を見に行く予定だったんだけど、それをやめてきているのに…という気持ちがあったけど、相手は病人なのですからがまんするしかありません。
さらに12月2日もひどかったですね。
姉は同窓会の幹事で昼間いないので私が代わりです。
姿勢は少し前から正座で頭を前に倒したような状態で枕などを頭の下に置いているような状態でいました。
背中をさすっていたのですが、うとうとしていた感じだったのでさするのをやめたら、少ししたら「いるのならさすっとくれ」といわれ、ずっとさすっていたら手の痛いこと。
そのうち手が動かなくなってきましたが、やめるわけにもいかず。
すご~くゆっくりと手を動かしていました。
翌日から子供がテストのため早めに帰りたい(6時ごろ)と姉にはいってあったのですが、食事をして母親に挨拶をして帰ろうと思ったら不機嫌の様子。
不満や「あれやってくれ」といわれ、帰れそうにありません。
いつ帰ろうと言おうかと思っていたら「お前はいいわ。時間がきたら帰ってそれでよしだ。○○(姉の名前)は…」などと言い出し、ますます帰れなくなります。
何かをとりに行くふりをして姉に助けを求め、ちょうど姉の次男がバイトから帰ってきたのでどさくさにまぎれてやっと7時半ごろ帰ることができたのでした。
最後に行ったのが12月5日の水曜日。
姉はいろいろ所用を済ませたかったようです。
この日は母親は話もあまりできない感じでした。
わりとうとうとしている感じで、ときどき少し横になったり体勢を変えたりしています。
ときどき?目が覚めると「えらい、えらい」といっていました。
正直いってこの日は何も言われないから楽でした。
向きを変えた時に毛布をかけなおしてあげたり、目が覚めた時に時々さすってあげればいいだけだからです。
でも、かなりヤバい感じはしていました。
そして、12月7日(金曜日)の朝、電話が入りました。
「朝、容体が急変して病院へ連れて行った。最悪の事態も考えてくださいといわれた。」とのこと。
ちょうどこの日は朝から遠方に住んでいる真ん中の姉が1泊2日できていたんですよね。
聞いたけど、どのくらいの緊急事態かわからず、子供がテストで昼で帰ってくるため、食べさせてから行こうと思っていたんだけど。
その前に(お昼の1時ごろ)亡くなったというメールが入りました。
さすがに子供を待っている場合ではないので、メールをして病院へ直行。
亡くなる前に何か言ったか聞いたけど、苦しかったようでそういう言葉はなかったようです。
でも、お母さんがかわいがっていた孫(姉の次男)もたまたまこの日はバイトが休みで看取ることができたし、よかったのでは。
姉は2人とも少し泣いていたようでした。
わたしはてっきり翌日が通夜で翌々日がお葬式と思ったのですが、ちゃんと準備をしたいということと広い会場があいていないということで、日曜日が通夜、月曜日がお葬式となりました。
実家に戻り、家を掃除したりの準備。
次の日も、来るお客さんのお茶出しなど。
そしてお通夜、お葬式。
お葬式はお坊さんが7人も来るという豪華さ。
お葬式代とお坊さん代が同じぐらいです。
まあでも生前(元気なころ)、「葬式は立派にやってくれ」などといっていたので喜んでいることでしょう。
でも、がんだと打ち明けたのは実妹だけのようです。
田舎なので地域の人たちとも交流が深く、また詩吟や社交ダンスなどもやっていたので顔は広いです。
また、外づらはよかったようなので、家族以外にも本当に悲しんでいる方もいらっしゃいました。
仲のいい人にもがんというのは隠して、どのように説明したかはわからないですが、ごまかしていたみたい。
なので、みんなけっこう驚いていました。
さらに、「苦しんで死んだとはいうな。」ということで、本当は苦しんで亡くなったのですが、「痛み止めの薬を飲んでいたので、そんなに痛がらずに亡くなった」などと姉は説明していました。
亡くなった時は口をあけてつらそうな顔でしたが、死に化粧などをしたせいか不思議ととても穏やかな顔になりました。
亡くなった経過はこんな感じです。
結局最後の会話は怒られたままで終わり、後味の悪いものになりました。
まあ、後半は痛みもあってか怒っている時のほうが多かったので、仕方ないですけど。
だから母親というと怒られている顔を思い出してしまいます。
遺影は穏やかないい顔をしているんだけど…。
しかし、これではカルマは解消されそうにないですね。
浅野信さんに2年半ぐらい前にリーディングで母親のことについて聞いたことがあります。
母親とは縁が深く、親子で生まれたことが多かったそうです。
鎌倉での前世でも母娘で、わたしは傷ついたり、窮屈な思いをしたそうです。
アドバイスとしてはまとめると
お母さんのよい面やお母さんさんとのかかわりでよかったこともあったはず。
人はその時点での枠の中でしか生きられないので、その枠の中で精いっぱい行ってのことなのでそのことを分かって許してあげましょう、とのこと。
また、どうしても許せないのならそれでいい。
それでも、少しずつ理解し許せて自分が解放されるように取り組んでいきましょう、とのことでした。
道は険しそうですが、悲観しても仕方ないですしね。
とりあえず今生で文句を言われることはありません。
よかった面はそうですね…出産で里帰りした時は食事などよくしてもらいました。
あと、畑があって野菜を作っていたので、行くと結構野菜をもらったりしました…。
かなり難しいですが、なるべく母親のよい面を思い出して、許していきたいと思っています。

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